現代美術家の保良雄さんと2日間。記憶に残っていることはたくさんある。そんななかでも、忘れられないのが、保良さんがご飯を食べる前の時間。彼は5秒近く両手を合わせて「いただきます」をする。形式ではなく、本当に感謝の気持ちをこめて。当たり前のように食卓に並ぶ、例えばお米でさえも一体どれほどの人が関わってこの食卓に並んでいるのだろうか。岩塩は一体どれほどの 時間をかけて結晶化しているのだろうか……。この服を形成する糸は? わずか2日間という時間だったが、彼と一緒に過こしていると「いただきます」の姿からでさえも、そんなことを考えさせられる。当たり前のことを、当たり前のものとせず、思考をめぐらす。例えば時間軸で物事を捉えてみると、ものの見方が変わる。すべてにストーリーがあるのだと。そして私たちにはその過程を想像する力がある。これは即物的な社会によってダメージを被った地球の再生を促すもっとも最短ルートなのかもしれない。
2021年のATAMI ART GRANTや2022年に石巻のリボーンアート・フェスティバルで展示されていた<fruiting body>をここで見れると思いませんでした。
ちょうど10月中旬から森美術館で開催される「私たちのエコロジー:地球という惑星を生きるために」でこの作品を展示する予定で、プログラムを書き直したこともあって、テストしたいタイミングだったのでよかったです。あの作品は、海水が糸を伝り、雫として一滴一滴垂れていく。その一滴一滴が岩塩に流れ、岩塩が徐々に溶け、そこに閉じ込められていた何億という時間が同時溶け出し、また今という時間と共に結晶化していく。こうしていろんな時間軸のものを、段々つなぎ合わせる、“つなげる作品”なんです。
こんなに大きなアトリエだからできる。
元々はダンボール工場だった場所をリノベーションしている最中です。内見した時はぐちゃぐちゃだったんですけど、1年近くの地道な作業を経てようやくここまで辿りつきました。まだ電気配線の工事を入れられていないので、炎天下で作業するのはきついですよ。エアコンに頼らずに体を冷やす方法があるので、暑さに耐えられなくなったら言ってください。
朝は九十九里浜で<fruiting body>のテストをするために海水汲みを。「海水汲む作業をする予定です」と聞いた時は、大きなタンクをトラックに積み、自動のポンプのような装置で汲み取るのかなと勝手に思っていたら、24Lのポリタンクひとつで。
もっと楽にやろうと思えばできるんですが、今はあの方法しか考えられなくて。
2021-22年のリボーンアートフェスティバルでは、宮城県石巻の埋立地に「This ground is still alive」という作品名で”畑”を作りました。会期を終えて約1年たちますが、畑作業をしに行く予定があるということだったので石巻へ同行しましたが、一度は車で通りすぎてしまうほどの、本当に駐車場のような場所に畑があって驚きました。
畑から「あ、あの車かな」と思いながら見ていましたよ。さぁ〜と通りすぎていきましたもんね。
畑にすることで土地の再生を手伝ってくださる地元の人にも話を聞いたところ、ユンボのような重機を使わず、つるはしだけで土を耕したと。地元の人たちもそんな保良さんの行動に相当驚いたみたいです。
海水汲みも同じことなんですが、重機を使えば簡単なんですが、それを使ってしまったら、スピード感だけで、たぶん何も感じれないと思ったんです。まるで顕微鏡をのぞくように、海の中でも土の中で、うごめいているものをちゃんと“見たい”。使うエネルギーが大きくなれば大きくなるほど、多くのことを見逃してしまいます。
だからつるはしだったわけですね。これは「手間ひまかける」とはまた違う感覚なんですか?
「手間ひまかける」っていう風に考えていないですね。やっぱり他の生態系や物質と向き合うということは、それらが持っているエネルギーと同等のエネルギーを持ってこちらもぶつからないと感じとれなかったり、向こうは語りかけてくれないものだったりします。なので「手間ひま」という概念はないかもしれないですね。
何がなくなったら自分を「現代美術家」と言えなくなると思いますか?
かっこつけて言うなら「泥臭さ」ですかね。あとは自分で作品を作らなくなった時とか。
保良さんの青く染まった爪が物語っていますね。それはどうされたんですか?
数日前に汚れた作業着を藍で染めなおしていたんです。藍は動物性タンパク質に反応して藍色に変化していくものなんですけど、指先が藍色に染まってしまった瞬間、自分の体なんですが、少しだけ自然に近づいた感じがしたんです。きれいな手で土を触るよりも植物に一回侵食された状態の手で土に触ると、何かすごくフィットする感覚があった、身体と自然とのグラデーションが見えたというか。最近もっとも興奮した気づきでしたね。
集めているものとかありますか?
収集癖ありますよ。と言ってもそんな貴重なものとかではなく、結晶だったり、石、それに土だったりと、時間を閉じ込めているものがわりと好きで集めています。
「時間を閉じ込めているもの」という表現がすごく保良さんらしいですね。
土とかはわりと拾いやすいので、色んなところに行っては拾ってきます。『土を水で練って焼いたもの』という作品は、いろんな場所で拾っていた土を混ぜて造形し、野焼きで焼いたオブジェです。
ちなみにどこの土で作られたものですか?
4種類ぐらいの土が混ざっています。一つ目は縄文時代の地層が隆起した北海道から。そこで採れる土は粘土質なのでベースに使用しています。あとは石巻の畑の土。それに今年登ったネパールのアンナプルナという山のベースキャンプで採取した鉱石を砕いたものも入れています。あとは東京のワタリウム美術館の目の前の土も混ぜています。
混ぜるのはなぜですか?
それも「つながってる」からです。海もそうですし、土地も全部がつながっています。僕たちはそれに国境という”線”のようなものを引いて、勝手に別のものとして見てしまいがちですが、本来はつながっているものです。こうして混ぜ合わせることで改めて一つにできないかなと思いながら制作した作品です。
今回、人工タンパク質から作られたBrewed Protein™繊維を使ったジャケットとボーダーシャツを着用いただきましたが、保良さんにはどう見えましたか?
近い未来に石油製品が使えなくなってしまったりすることを考えると、やはり自然由来のもの、例えば羊毛やコットンなどに頼らざるを得なくなります。そんな中でBrewed Protein™のような、「人間が人間のために作るもの」というのはものすごく可能性のある考え方であると思いました。しかも「生み出して、無に戻す」というのも“循環”と呼ばれるものの考え方の先にある新しい概念な気がしています。
保良さんのようにまるで顕微鏡のような解像度のレンズで見る癖がついていると、着るものや使うものもある程度時間かけられて作られているものが多かったりするのでしょうか。
そもそも時間かけずに作られたものって多分この世にないんじゃないかなと思います。何でも誰かの想いがあって作られている。誰かがいるから僕たちの目の前に存在する。それを作るのが人間じゃなくとも、機械であったり、あと自然界だったり。そう考えると簡単に作れるものって本当に存在するのかな?って思う。ただ、その中でも僕は、ものすごくカロリーのかかっているものを好んで選びがちかなというふうに思います。
人工と自然の違いって何だと思いますか?
昔は「都市=人工」というように分かりやすく考えていた時期もあったんですけど、でもコンクリートだって自然物からできている。つまり2極ではなく、グレートーンなのかな、と。ただ、自然を遠のけてみたり、自然をコントロールしようとしていたりすると、何かその中にもしかしたら“人工”っていう考え方だったりとか、概念があるのかなというように最近思うようになりました。
日常的に何かを探すことが癖になっているんでしょうね。
多分普通の人よりも僕は下を向いて歩いていると思います。ずっと物を探してる。北海道にアイヌの友人がいるんですけど、彼らは60キロとか70キロで走行している車の中から、「あそこに⚪︎⚪︎が生えてる」って山菜などの食べ物を一瞬のシルエットだけで発見する。それは幼少期から外に出たら絶対何か食べ物をとってこい!というような教育を受けているからと聞きました。きっとそれに似ているんでしょうね。僕の場合はそれが土だったり、鉱物だったりするだけで。
アイヌの友人の能力は食欲に紐づいていると思うのですが、保良さんの場合は何欲になるんでしょう?
「なんだろう…」っていう好奇心のようなものじゃないですかね。当然作品になるかなっていうのは頭のどこかで考えていますけど。でも僕が土を集めはじめるようになったきっかけも、土の中に石英(せきえい)というガラス質が入っていてそれがすごい綺麗だなと思ったことだったりします。だけどもその石英について調べていくと、北海道の続・縄文時代の時にそういうキラキラした石が入った土器がたくさん発掘されていて。装飾で使っていたんだと思います。それを思うと、「きれい」とかっていう感覚は昔の人と今で変わらないんだろうなって。
保良さんと2日間過ごしていると、今まで見えてなかったものが視界に入るようになったり、特に意識していなかったものの中にきれいさを見出せるようになった実感があります。アートを通じて人助けをしている感覚はありますか?
ないです。そんなたいしたことはできないと思っています。何かが伝わったらいいなというよりも、何か一緒に感覚を共有できたらいいなと思うことはあります。
その感覚というのは、一体どのような感覚でしょうか?
ちょっとしたことです。それは本当に「うつくしい」とか、「きれい」とか。それぐらいで十分です。例えば蚕。蚕って見た目、気持ち悪いと感じる人が多いと思うんですよ。でも、彼らが生産する絹糸ってものすごく美しい。そうした視点で見てみると、なんて美しい生き物なんだって思うわけです。容姿、つまり見かけの美しさで判断することは当然あるんだけど、そこに内包されているものっていうのは、簡単に見えるものではない。目で見えるだけがすべてじゃないと、僕は思いたいし、そういう考えでいろんなものに接していきたいと思っています。
テクノロジー、生物、無生物、人間を縦軸ではなく横軸で捉え、存在を存在として認めることを制作の目的としている。フランスと日本を拠点に活動。